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対話とポリフォニー(多声性)

養老先生との対談での感想の中で、究極的には、根本的な病の原因は生きていることそのものだ、と書いた。


生きているだけで、この絶妙なバランスで編みこまれた心身には必ず負荷がかかり、個人に応じて負荷が限度を越えると復元力が働く。その復元力を別の方向から見ると「病」に見えるというのが実情ではないだろうか。生きているとは、そういうことではないか、と。




なぜこういうことを考えていたかというと、フィンランドのオープンダイアローグを含め、なぜ「対話」により心の病が治癒しうるか、ということを考えていたから。









当たり前に行っている「対話」の本質への理解と「対話」の質を深めていくことが、新しい医療の近道にも通じているし、平和運動とも関連するのではと思っていたから。


「根本的な病の原因は生きていることそのもの」とあえて極論を書いたのは(実際、仏教ではそうした理解からすべてを始める)、実はその袋小路にぶつかり、出口がなく悩み苦しんでいる人が多いのではないかと思ったからだ。


心の問題に悩み苦しんでいる相手に対して、「正しさ」や「客観的事実」を盾に「責任」を押し付けていくと、究極的には「生きていること」がすべての原因だと追い詰めてしまう。

そこに逃げ場はない。

「生きていること」が根本原因だとして、その原因に対してすぐに対応しようとして考えが煮詰まっていくと、自己否定や絶望から自死へと至る悲劇も起きてしまうのだ。


だからこそ、大事なことは、まず「責任」という重荷を一度取り外して自由な状態にすることが大事なのだろう。

そうした方が、「治りたい」という自然な欲求を生む土台が作られ、病に対して自発的に積極的に取り組む構えができる。


別の言い方をすれば、「自分の責任だ、自分の責任だ」と、自分の中へ中へと、「責任」という名のもとに自己否定の思考回路を奥深く押し込むよりも(その過程を周囲が加速させてしまうことが問題だ)、「責任」という言葉を一旦自分の外へと追い出して外在化させてみる。

自己責任・自己否定という思考回路と自分との切り離し作業を行ってみる。


対話とポリフォニー(多声性)(オープンダイアローグで大切にされる他者との考えの違いを音楽のように同居させること)を続けることで、自分の考えだけに覆い尽くされなくなる。

そうして他者の考えにも身心を浸していると、自分の考えが堂々巡りをしない別の思考の水路が生まれて来る。


そうすると、自分の体勢を整える余裕が生まれ、最終的には自分自身の問題として課題に取り組むことができるようになるのではないだろうか。


このことは、今必死で書いているアノニマの新刊(4月には発売したい!)の中で、日々もがきながら、暗闇の中にある未来への種を探し続けている最中だ。もう少しでこの暗い森から出ることができる!


養老先生との対談でも、そうした「対話」の可能性を考えていたのです。

なぜ公開で対談する必要があるのか。対談や対話。する側受け取る側。その核には何があるのか、ということを。










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