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「体験しながら、同時に観察する」。慎重に、かつ良心的に。

自然科学での「観察」は、自分とは関係ないものとして蚊帳の外から安全地帯で観察する立場。

自分は科学の世界において、どうもこの態度が好きになれないところがあった。

「医学」は「科学」の側面があり、自分の中に「科学は好きなんだけど嫌い」というダブルバインドの感覚は、科学がもともと持っている「自分とは関係ない」という観察の態度のことなんだと気づいた。科学者が社会の場で発言するとどうもチグハグになるのは、自分だけは当事者じゃない、という職業として身に染みた感じが伝わってくるから。


それに対して、心理学者のユングが言うように、宗教での観察は「体験者として観察する」立場。このことは、芸術での本来的な立ち位置にも近いんじゃないかなぁ。


つまり、アートが自然科学のように外から観察するものとなると、アートは自分とは関係ないものになってしまい、良さが損なわれる。

自分が大切にしたい芸術や宗教の世界は、ユングが宗教の本質を指摘したように、体験しながら観察する立場。それは科学の限界でもあるからこそ大切なのだ。


つまり、自分もそのプロセス全体の一部として組み込まれているようなもの。

きっと、それは古来の祭りの本質でもある。

祭りは、そうして人とカミやホトケと共にある世界を作ってきたし、共に平和に暮らす場所を作ってきた。体験しながら観察する場として。


ひるがえって。

いま巷で起きている社会現象を見てみると、何かこうした宗教的な体験の本質に近い気さえする。


集団がわーーっと大きな動きに濁流のように動かされていく様子は、科学だったり医療の衣をまといながら、意外に本質は宗教的体験のような気さえする。河合先生の『ユング心理学入門』のページをふと開けて思ったこと。


「(宗教での)ヌミノース体験は、人間の心のなかに抗しがたい力をもって生じるものであって、意識的に起こしたり、制御したりできるものではない。

この過程において、人間は観察者であると同時に、その作用そのものであり、自ら体験しつつ観察するのである。ここに、宗教の原語としてのラテン語の religio が、本来、「慎重なる観察」という意味をもっていたことは、示唆するところが大である。」


体験しながら、同時に観察する。

体験者だけになるのではなく、観察者だけになるのでもなくて。


いま起きている現象を、「体験しながら、同時に観察する」という態度を保つ。

慎重に、かつ良心的に。




 

河合隼雄『ユング心理学入門』(P200)より

「ユングは、宗教とは、結局「ルドルフ・オットーがヌミノースムと呼んだものを慎重かつ良心的に観察することである」と述べている。

しかし、ここに「観察」という言葉が入っているが、自然科学における立場と異なる点があることに注意されたい。

つまり、観察の対象となるヌミノース体験は、人間の心のなかに抗しがたい力をもって生じるものであって、意識的に起こしたり、制御したりできるものではない。

この過程において、人間は観察者であると同時に、その作用そのものであり、自ら体験しつつ観察するのである。ここに、宗教の原語としてのラテン語の religio が、本来、「慎重なる観察」という意味をもっていたことは、示唆するところが大である。

そして、われわれの立場が、このような意味での宗教と深い関係のあることが、感じられることと思う。

実際、ユングはその心理療法において、このような意味における宗教性の重要さを強調しており、この点、宗教に対して否定的な態度を示したフロイトと、著しい対照をなしている。ここにユングのいう「宗教」は、特定の「宗派」をさすものでないことは明らかである。」




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