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中村哲先生との思い出


ペシャワール会の中村哲先生が亡くなった。

意図的に殺害されてしまったが、哲先生はそうした事情もすべて覚悟した上で、医療、医業、医術・・・医をすべて含んだ井戸掘りという行為に取り組まれていたから、我が人生に悔いなし、とおっしゃることだろう。

自分は医学部の学生時代だったころから、哲先生の活動に感銘を受け、何度も何度もお会いして、長く話した。

学生時代は、医学界の常識に染まっていない。哲先生のような医学の本道から外れているように見えながら、結果として人間としての本道を生きている医学の先輩に敬意を覚えた。(ただ、多くの人は医学生から医者になったとたんに医療の場に安易に溶け込み、当たり前の感性やアンテナが働かなくなるのはなぜだろうか?)

自分が医学生だった時、哲先生とはやけに馬が合った。相手が学生だと警戒が外れるのか、二人だけで何度も夜を徹して話した。

というのも、哲先生の活動の最初のきっかけは、登山にあり、自分はそのことに惹かれたからだ。

哲先生は、九州大学医学部の学生の時から登山をしていて、医者になったときも、パキスタン・アフガニスタンの山に登りたいことが理由でボランティアに行き、そのことが縁となり現地の活動に少しずつ深入りしていくことになった。報道ではその後の活動の放映が多いが、哲先生の原点には山への敬意と愛がベースにある。大いなる自然に見下ろされて暮らす素朴で朴訥とした現地の人々と現地の文化への深い敬意があった。

医療は「人助け」が目的だからこそ、その目的を外さないようにすると結果的に井戸掘りにつながっただけで、自分行為はすべて医療であるというのは当たり前のことだった。日本での英雄視するような演出された報道や、医療へのとらわれた見方にこそ疑問を感じられていた。人助けの本道からずれなければ、医療に携わる人間は同等だと本気で思っていた。働く場所が命がけなのか、そうではないかも、単に偶然の結果に過ぎないとも。

日本の「常識」は、単に偏見の寄せ集めや集団の圧力だったりする。本来の「common sense」とは「共通感覚」であり、通常の感覚で深めていけば誰もが到達する真理こそが「common sense」であり「常識」なのだ。哲先生は、そうした「common sense」をこそ大切にしていた。日本は「common sense」がうまく働かない奇妙な場だ。

哲先生はハンセン病(ライ病)への医療活動も従事されていて(現地ではまだ根深い差別が残っていた)、そこも自分が哲先生と共鳴したポイントだった。自分は、地元の熊本において、迫害されていたハンセン氏病を助けようと仏教とキリスト教(あくまでも仏教とキリスト教をベースにした個人)とが協力していた歴史を知り(しかもそれは自分が生まれ育った本妙寺こそが駆け込み寺だった)、そうした宗教・医療側からの共感も、医療への道へと入るきっかけになった。そうした話も哲先生は興味深く聞いてくれた(確か、哲先生はクリスチャンじゃなかったかな。あまり表に出さないけれど)。

哲先生とは、山や自然への愛や敬意が活動のベースにあること、ハンセン氏病をはじめとした人類の病への負の遺産への抵抗と克服、という二点において、(同じ九州人でもあり)深く共鳴するところが多かった。

お会いした時、多くは学生時代の登山の話を聞いた。その上で、いかにパキスタン・アフガニスタンの山が素晴らしかったか、と。

医者になってからはまったく登山ができなかったらしいが、山や自然への思いこそが核となり、過酷な活動を芯として支えていたのだろう。

山や自然の下で繰り広げられる人間の野蛮な行為に対しても、山から人間界を見るような達観した視点で見ておられた。常に山や自然の位置に視点があった。

人を憎まず罪を憎んでいた哲先生は、個人に対して怒りを向けなかった。常にその背景にある社会の暴力性にこそ怒りを向けていた。そうした社会システムを無自覚に作ったのは人間でもあり、だからこそいづれ社会はよくなると確信していた。きっと、それは一代だけの時間軸ではなく、何世代にも渡って変革されていく・・。自然の流れのような長い眼差しだった。

おそらく。哲先生は自分を殺した相手にも、怒っていない。そうした勇敢な戦士に対して敬意を持ちながら、そうして道を踏み外させた社会の流れにこそ、怒りのエネルギーを向けていた人だったから。もう達観されていた。

哲先生とは自分が医学部の学生時代だから20年近くお会いできていない。

『アフガニスタンの診療所から』(筑摩書房、1993年)を読んで会いに行き、意気投合した。『医は国境を越えて』(石風社、1999年)、『医者井戸を掘る』(石風社、2001年)が出た頃の話だ。

あの時点ですでに自身の死のイメージは語られていたなぁ。顔は笑っていたけど目は本気だった。

自分の断片的な記憶を思い出しても、山と自然の話をした記憶しか出てこない。人間や政治の話はあまり出てこなかった。あの時点で、すでに自然の全体性や歴史性と一体化していたところがあった。

そして、命がけで、何かを次の世代に渡そうとしていたことも、自分は身体全体で覚えている。

改めて思うのは、彼の思いを引き継ぐのは、他の誰でもなく、こうして生きている者たちだ、ということだ。

生きているだけで、常に生命のトーチは渡され続けている。この当たり前の事実を、改めて突き付けられたように感じた。

「生きている側にいる人間」の役割や責任として。

ペシャワール会

●ハフポスト日本版 2019年12月05日 中村哲医師、銃撃されたアフガニスタンで願っていたこと。遺した言葉から生涯を振り返る

●FORBES JAPAN 2019/12/05 アフガンの地で絶命した医師、中村哲の遺志。武器を捨てた農民とともに復興を推進

●NHK NEWS Web 2019年12月6日

中村哲さん 知られざる“無垢な” 素顔


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