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「七夕めぐり花と花曼荼羅」@IID 世田谷ものづくり学校


昨日の七夕はミストのように振り続ける雨だったが、塚田有一さん(「温室」)と『学校園 みどりの星の座 第二回「七夕めぐり花と花曼荼羅」』@IID 世田谷ものづくり学校を。

(前回の記録  →●めぐり花とみどりの養生所@IID 世田谷ものづくり学校(May 12, 2019)

■2019/7/7(Sun):学校園 みどりの星の座 第二回「七夕めぐり花と花曼荼羅」ゲスト:稲葉俊郎(produced by.温室 塚田有一)@IID 世田谷ものづくり学校  二階スタジオ(東京都世田谷区池尻2丁目4-5)(親子同伴可, [持ち物]花ばさみ、草花持ち帰り用の袋,草むらに入ったりできる服装)(→詳細HPIID世田谷ものづくり学校HP)

​*2019/5/11. 7/7. 8/10. 9/14. 11/9. 12/14. 2020/1/11. 2/8. 3/14

雨の中、草花を摘みに行く。

雨かぁ、と思うのは大人の感性で、子どもは雨の中を飛び込んでいくし、水たまりを見ると嬉々として飛び込んでいく。

雨をよけようとする大人と、雨や水と一体化しようとする子ども。

大人になるにしたがって、人間がネガとポジのように裏返しになるということは、大人は何かを得て何かを失ったのだろう。

その「何か」を解明するのも、大人の役割でもあり、人生の面白みである。

雨の中、草花を摘むと、まじまじと草花と一対一で対峙する。

植物は水に濡れている姿も美に適っているのは、人間の内臓が表に出るような形をする植物の生命の瑞々しさが水により一層際立つからだろう。

雨の中、草花と一対一で対峙しながら、鋏で枝を切り落とすだけでも痛みを感じる。 自分が感じた痛みこそが、そこでやり取りされた命の実感として大切な感覚なのだろう。

命の実感は頭で理解するものではなくて、経験として全身で感じ取るもの。

今はなるべく痛みを感じないようにする無痛文明へと舵を切っているから、それは壮大なフェイク(Fake)の世界を産み出す気がする。

ひとりひとり何を選んだか、個性が出るのが面白いところだ。自然が多様なように、それぞれの経験もビジョンも多様だから。

水と器しかなかった空間から、少しずつ全体性が立ち上がってくる。

子どもは子どもなりの感性で、この多様で無限の自然界の全体を、人間が部分として再現して立ち上げていくことの途方もなさと美しさとを同時に感じていただろう。

花を集団で生けていくのは、色々な人の美意識が混入してくるので、思い通りにならないからこそ面白い。

みんなで花を生けると、集団のエネルギーのうねりは、場として子どもも巻き込むので、子どももどんどんはしゃぎまわり、暴れまわる。エネルギーの渦が場に立ち上がると、子どもは全身で感応するのだろう。

大人は失った自然を取り戻すために花を生ける。 子どもは自然とひとつだから、むしろ人工的な奇妙な世界に興味を持って走っていったのも、時相のズレのようで面白かった。

360度どこから見ても表情が出るお花の全体像。阿修羅像のように。

みんなで花を生けて、終わると、場のエネルギーがクールダウンするように子どもたちも落ち着いてきたのが面白かった。 子どもが場や空間と切れずに一体化して生きている存在ならば、大人がつくる社会のひとつひとつの細部にも全体像にも、未来への責任があるだろう。

最後に、捨ててしまった花弁や葉を集めて、みんなで曼荼羅をつくった。

草花とお別れをする儀式のように、場の意識が集まって鎮まっていくようだった。

花を生けるのは、花と生命を交歓するためにあると思う。そのやり方は、色々な文化で儀式として残されていて、日本は生け花という世界にもなった。

文化や形は違えども、儀式、祭祀などで花とかかわることは、わたしたち生き物の生命は植物世界によって支えられているからこそ、植物の再生と復活を願い、命に感謝する行為にこそ、あるのだと思う。

亡くなった方に香華をたむける。

仏教が生まれたインドは熱帯で、植物の強烈な香料を使って死者の臭いを防ぐことに香華をたむける目的があった。 亡くなった方に関わる人、僧が主に花を添える行為を行っていた。そこに活け手の美的センスが生まれてくる。 室町時代に書院づくりの和室が生まれ、床の間が生まれる。床の間は個人の展示空間(ギャラリー)となり、絵・書(掛け軸)や花が飾られることになる。 日本には昔、巨大な美術館などなかったから、ひとりひとりの家が小さい美術館だったのだ。

8代将軍足利義政の時代に、床の間に立て花を飾る習慣が生まれた。当時、生け花ではなく「立て花」と言っていた。立て花の達人として、立阿弥、文阿弥などが知られていて、世阿弥のように『阿弥』が付くのは(「阿弥陀仏」の「阿弥」からもわかるように)、僧のような人たちが専門化していったことが分かる。

ちなみに、京都に六角堂(頂法寺)というお寺がある。 ここは親鸞(浄土真宗開祖)の夢告(夢で天啓を受けた)場としても有名だが、この寺の裏には聖徳太子が沐浴したとされる池があり、そこの僧房を池坊(いけのぼう)と呼んだ。これが生け花で有名な池坊の起こりとされている。 立て花から生け花として理論化したことで、池坊は生け花を日本に広めた。

仏教、夢、聖徳太子、水、、、こうしたキーワードと池坊や生け花の起こりを考えると、とっても面白い。

茶道の起こりは水の浄水から、華道の起こりは死者の消臭から、という切羽詰まった切実な事情から始まり、日本はその行為に美を施し続けたことで、壮大な道の世界を生み、僕らはそれを受け取っている。

一枚の葉っぱをじっくり見ていて、そうしたことが浮かんでは消えた。 葉の葉脈にも、生命の歴史が詰まっているから、そうしたことを思い出させてくれたのだろう。


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