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金谷武洋さんの著作から 改めて日本語を考える


普段から、自分の思考や考えは、そもそも自分が使っている言語に大きく規定されている、と思うことが多かった。

例として、主語と述語の関係性がある。

「わたしが命を持っている」と考えると、私が命を自由に扱えるようになり、身体も売買対象となる。

それに対して、 「命が私を持っている」と考えると、巨大な命が私という現象をたまたま起こしている、という発想になり、視点が命に向かう。

「主語」をどう置くか、わたしたちの思考や考え方に無意識で大きな影響を与えている。当たり前すぎて気づかないだけで。

そんなことをツラツラと考えながら、ふと金谷武洋さん(モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長)の本を読んだ。自分が無意識に使っている言葉、もう一度改めて考え直してみたいと、思った。

言葉で考えを編みなおし、考えを言葉で編みなおすように。

子供が2歳。 いままさに言葉を学習しようとしている。

言葉の学び先はまさに自分たち、そして環境から。

言葉を教える立場の一人として、その重い責任を感じているし、子供の無意識へと強い影響を与える「言葉」を大切に使いたいと改めて思う。

暴力やおそれや支配や怒り・・・・などを喚起する言葉ではなく、 愛や共感や思いやり・・・・そうしたことを喚起する言葉づかいをしたいと、常々思う。

だからこそ、普段から妻にも「・・さん」と呼ぶし、丁寧語で話す。乱暴な荒い言葉は使いたくない。子供へ話しかけるときも、自分の言葉を特に気をつけている。

子供は圧倒的な知性と好奇心とで、すべての環境から森羅万象の真理を読み取り、学び取り続けているのだから。

金谷武洋「日本語は敬語があって主語がない 「地上の視点」の日本文化論」(光文社新書, 2010)より紹介。

この本には、 日本語の「地上の視点」と、英語の「神の視点」に関して、言語の立場からいろいろと書いてあって、とっても面白い。

英語の大きな変化は、1066年のノルマン人による征服(Norman Conquest)。

ノルマン人の征服により、支配階級・上流階級はノルマン人で占められ、ノルマンディー地方(現在のフランス北西部)に住んでいたノルマン人の言語、フランス語(Norman French)が公用語となった。 それに対して、英語は小地主と農民・農奴の言語となってしまった。 もし歴史上、「ノルマン人による征服」のような大事件がなければ、現代英語はオランダ語やドイツ語と同じような言語で、ゲルマン語の特徴を留めていただろうとされている。

王位継承問題で、フランス王がイギリスに攻めいり、英語はフランス語にいじめ抜かれた。

古英語に大量のフランス語が入ったことで、 ・男性・女性名詞の区別がなくなり、 ・名詞、冠詞、形容詞の格変化、動詞変化(活用) も英語は失った。

その結果、二人称の親称・敬称を失い、「you」一語になった。フランス語は「tu/vous」、ドイツ語は「Du/Sie」と、相手の立場によって呼び名を区別する。日本語も「あなた」の呼び方は敬語を含め大量のバリエーションがある。

強調のために使われた行為の「他動詞Do」は、疑問文・否定文で義務的に使用されるようになり、「行為文中心の主語言語」傾向を強めたのが現代英語である。

そして、文法が順序でしか表せなくなったので、英語は文頭に「行為者」を置くようになった。

それが「主語」の誕生とされる。

「主語」は、言語に普遍的なものではなく、一部の西洋語で例外的に発生した現象。 英語、仏語、独語のように、常に文中に主語を置く言語は現在でも少なく、北欧語を含めて10をこえないらしい。

言語に「主語」を持つことで、英語話者の視点が、上空に不動の「神の視点」をもつようになった。これは考え方にも無意識に影響を与える。

「I」の語源は、インド・ヨーロッパ語の共通祖語とされる「*ek」で、ドイツ語の「ich」、フランス語の「je」、スペイン語の「yo」、イタリア語の「io」も同じで、すべて「*ek」の変化。 これがラテン語、古典ギリシア語に入り、「ego」となる。

西洋語の大きな流れは、自然中心の発想から自我(Ego)を前面に押し出して人間中心の発想に変わってきた。エゴイズム拡大の変遷。

また、英語の基本構文は、他動詞構文(SVO)となった。

日本語なら「好きだよ、愛してるよ」で十分なところを、「I love you」と全要素を言わないと文にならないのは、自動詞ではなく、他動詞構文が基本だから。

日本語の話し手の視点は、地上にとどまる。

神の視点を得た英語を象徴するのが「主語(Subject)」。 ただ、Subjectの原意は、「主」ではなく、正反対の「従」。 文において従だったものが、主となって君臨している。

(この図は、金谷 武洋「英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ」講談社 (2004)より)

英語は「主語」の発明と使用により、話者が「神の視点」に飛んでいくが、日本語は主語をぼかすことで「地上の視点」「虫の視点」にとどまる。 (もちろん、主語をあいまいにするのは、責任逃れにも使われる。日本語が持つ功罪を知る必要がある。)

金谷武洋さんは、日本語のあいさつが厳密に英語に翻訳できないことから、日本語と英語の本質的な違いを考察されているらしく、共感するところが多い。

まさに、その翻訳できないところにこそ、わたしたちの無意識の野生の哲学が残っていると思うのだ。

日本語の挨拶には、対話、共感、共鳴、、、がこめられているらしい。

つまり、日本語はもともと対話に適した言語であるということだ。ディベートや議論という闘いや勝ち負けの世界ではなくて・・・。

以下も、金谷武洋「日本語は敬語があって主語がない 「地上の視点」の日本文化論」(光文社新書, 2010)より。

●「行って来ます」「行ってらっしゃい」 「行って+(必ず帰って)来ます」「行って+(必ず帰って)いらっしゃい」 帰ってきてまた会う願いを共有している。 対話の場を大切にする相手への気配りがあいさつとして残る。

●「ただいま」「お帰りなさい」 「お帰りなさい」→「ただいま」の順番で考えるとわかりやすい。

「早く(今すぐに)帰って来て」という祈りを、姿が見える直前の「只、今」まで唱えていた名残。

対話への場への帰還をどんなに待っていたかという気持ち。相手への気配り、おもいやり。

帰還者は不在の長さを詫びて、対話の場を離れてすまなかった、さあ、今、帰った、という気持ちで「ただいま」になった。 戦地から帰還した兵士のように、やっとの思いで帰ってきた感動。 対話への場の復帰を言祝ぐ言葉が、「お帰りなさい」+「ただいま」となる。

●「おはよう」 「おはよう」=「お+早く+ございます」 対話の場の二人が「早い」状況に共に感じ入っている。共感。 何時かという客観事実ではなく、こんな時間なんですね、という共感が重要。

英語の「good morning」は、主体である話し手が、聞き手に対して、「よい朝」を祈念する。

日本語では、二人が溶け合って渾然一体化した状況への詠嘆「早いですねぇ」。 生け花を見て「美しゅうございますね」という共視状況と同じ。

●「ありがとう」 「ありがとう」=「有難く」「(こんな状況で)あることは難しい」 嬉しいことをしてくれた聞き手と、うれしく思う話し手が状況に溶け込んでいく。場の中に混然一体に溶け込む。

●「はじめまして」 「はじめます+て」 何を「はじめる」のか? 「はじめます+て」ではじめるのは「対話の場への参加」のこと。 対話の場に今後も二人で居合わせましょう、末長くお願いします、という共通の願いがある。 対話の時間を続けるには、互いの同意と協力が必要で、その気持ちを込めて、「よろしくお願いします」が続く。

こうしてわたしたちが無意識に使っている日本語、あいさつ、そこに込められた意味を深く考えてみると、僕らの発想方法や思考法に、無意識に影響を与え続けているのだろうと、思う。

大人は言葉で考え、哲学している。 子供には言葉がないだけ、もっと自由に哲学している。

言葉を学び使いながらも、言葉に縛られないよう自由に哲学して考えていくことが、きわめて重要なことだろう。


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