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藤田貴大(マームとジプシー)演出『CITY』@彩の国さいたま芸術劇場


彩の国さいたま芸術劇場に、マームとジプシーの藤田貴大さん作の『CITY』を見てきた。 舞台の演出が本当に素晴らしくて面白かったー! 全編が未来的な印象でありながら、同時にフォークロアや昔話のような印象、そして現代の儀式のような舞台。

藤田さんは、おそらく演劇自体のフォーマットを新しくつくろうとしているのだ、と思った。イッセイミヤケがプリーツを発明し、デザインの前提となる素材から開発を進めているように。

テレビなどのエンターテイメント分野では、人の感情に訴える作品が多い。伏線を張り、期待(や不安)を貯めこませる。そのテンションを引っ張って増幅させながら、ダムを一気に決壊させるようにして、感情を開放し、カタルシスを起こす。そこで起きる感情の起伏の落差が、感動につながったり、感情の浄化につながる。ドラマ制作にはそうした不文律?の方程式があるようだ。もちろん、そのことを否定するわけではない。チャンネルをかえられないようにする工夫でもあるから。

ただ、演劇では目の前に観客がいて、そこに信頼関係が保証されている。

藤田さんは、おそらく演劇界での常識や固定化されすぎたフォーマットや枠組みそのものの更新に挑もうとされている。 TVでも映画でもなく「演劇」という形式でやる意義、「演劇」でしか開かない通路、行けない空間とは果たしてどういうものだろう、と。

伝統芸能である能楽は儀式に近い。江戸時代にエンターテイメント性を付け加えて歌舞伎が枝分かれして生まれた。 歌舞伎は人情含めて情緒を揺さぶる。派手な演出含めて、わかりやすさを大切にした。 それに対して、能では感情の奥底にある「思い」のような感情の土壌にこそ焦点を当てる。感情の土壌には種子が埋まっていて、種子の発芽のプロセスへ揺さぶりをかける。

昔話も同じようなところがある。たとえば、昔話で鬼がおばあさんを食べるシーンが出てくるが、そこでは鬼の殺し方、残虐性、悪の描写、おばあさんの感情の乱れ・・・そうしたものは一切記述されず省略される。なぜだろうか。

それは、古代の物語では個々の感情より、その現象が起きるに至った地下水の「流れ」をこそ重視していた。「ものの流れ」を語るから「もの語り」になる。「流れ」は、避けがたい運命のようで、時代そのものとも言えるが、巻き込まれている時は何が何だか分からない。「流れ」は善悪を越えていて、原因や結果は後付けでしかない。ただ受け入れ、通り過ぎるのを待つ。「おのずから」としか表現できない流れが、人生にある。

能楽でも昔話でも、個人の感情の奥底に流れる地下水のような「流れ」を大切にしている。能はさらに死者の鎮魂や、天地を鎮める、と言った、「場所」や「地霊」への儀式の要素もある。

・・・・ さて、能楽や昔話の世界に興味がある自分として、藤田さんの『CITY』を体験していて感じたこと。

それは、藤田さんは「現代」という流れそのもの、日常の「底流」をこそ今この瞬間に生きるものとして表現できないだろうか、と大きな課題を引き受けているように思えた。それは無意識なのかもしれないが。

現代は、特定のイデオロギーで分けられる時代ではない。善と悪は二元論ではなく、すべては入り混じっている。音楽も文化も、東洋と西洋も人種もすべて、入り混じり混血が進み、純血なものはバーチャルや願望の投影でしかない。同時に、日本の和歌のポエジーは黒人のHipHopやラップと呼応しているし、日本の職人や匠の技は、高度な科学技術とも呼応している。

今生きているものは、今という時の流れの一部として放り込まれ、巻き込まれるようにして生きている。今でしか生まれえない新しい演劇空間、今でしか生まれえない創造的な場とはどういう形式をとるのか、古代から現代まで貫通して流れる「地下水」の正体は何なのか、はたまた、儀式に残された原初の演劇の形態や本質とは何なのか。そうした問いが藤田さんという器の中で発酵して生まれてきた作品に思えた。 現代は善と悪が入り混じるとは言っても、指をくわえて悪に乗っ取られるわけにもいかない。善と悪のモザイクの中で、自分の中の善を暗闇から引きずり出すように引き受けた新しい「HERO」像とはどういうものか、それは善悪の彼岸に立つ新しい人間像でもある。

蜷川さん演出、村上春樹原作の「海辺のカフカ」を見たばっかりだったから、深く呼応しているようにも感じられた(実際、柳楽優弥さんが「海辺のカフカ」初演での主演を同じ場所でされている)。 「海辺のカフカ」でも、古代の舟と現代の舟とが衝突して座礁したときに見える風景を、溶け合う時間と特定の空間とをテーマに描かれていた。

→●舞台「海辺のカフカ」@赤坂ACTシアター(May 22, 2019)

『CITY』では演劇の演出や舞台道具もとても面白かった(役者も大道具を動かす一員だった!)。

「鏡」「窓」「ドア」が象徴的に繰り返し使われ、戻るべきホームポジションとして機能していた。 「鏡」は自分の内側の世界が外に投影されたもの(実際、わたしたちは鏡や投影でしか自分の内側を見ることはできない)。 「窓」は内側の安全な場所から外側の世界を観察する通路。 「ドア」は内側の世界を一歩出て、危険を冒して外側の世界へと通じる通路。

この3つの要素が複雑に入り混じって生まれたのがわたしたちが創り出す世界であり、具体化したのが「都市City」である。 0と1の二元論だけでコンピューターや複雑なバーチャル世界は作られ、二元世界は現実世界に強く影響を与える時代になった。 「鏡」「窓」「ドア」という3つの要素(Triad)で作られた現実世界の源流(それは内的世界と外的世界の総合だ)へと逆流するかのように、夢と現実とを二元世界で分けるのではなく、常にプレイバックでその3つの根源要素に立ち戻り続けながら再構築し続ける演劇世界だった。

・・・・・ いろいろと感じたことを書いてしまったが、藤田さんの作品は、単純なエンターテイメントしても無条件に面白くて楽しめる。 ただ、通常のエンターテイメントはすこし違う。感情の底流にある無意識に働きかけている気がする。夢もそうした通路の一つだ。

藤田さんの演劇には何重かの層が精緻に織り込まれていて、精密機械のような世界は藤田さんの内的世界なのかもしれない。

「マームとジプシー」という儀式を皆が体験しに来ているようでもあった。

役者も舞台装置すらも、そこに上下や序列はなく、常に全体として機能している。舞台上では部分と全体とが人間の体が機能するように配置され、「流れ」の中ですべては進んでいく。

「ドラマ」という言葉は、「祭式における行為(所作)」=「ドロメノン」から来ているらしい。

小林道憲『芸術学事始め』の中に、ハリソン『古代芸術と祭式』(1964年)からの引用でこういう記述がある。

「ハリソンの言うように、演劇は祭式から生まれる。

祭式における行為(所作)をドロメノンと言うが、そのドロメノンからドラマが生まれたのだと、ハリソンは言う。

行為の再現が定式化され周期的に繰り返されれば、祭式となり、そこから舞台芸術も生まれた。

祝祭には誰もが参加し、そこでは誰もが演技者である共に観客である。 それどころか、この祝祭には死んだ祖霊も参加し、神々も参加する。祝祭で演じられる舞踊や演劇の中で、人も踊り、祖霊も踊り、神も踊る。

これがやがて、演じるものとそれを見るものが分離することによって、演劇や音楽や絵画など、芸術が成立する。

原始的祝祭の踊りは再現的な踊りだが、そこからドラマも生まれてくるのである。

芸術は、神々を祀る祭祀から始まり、祝祭から生み出されてくるのである。

古代にしても、中世にしても、絵画や彫刻など、芸術作品そのものがこのような祭式から生み出されるとともに、その芸術作品自身が、神々への奉納品として、祝祭的意味をもっていた。

行為が再現され、祭式化されることによって、演劇も生まれてくる。 その意味では、模倣とその反復は創造である。

儀礼は、身体行為を介して神々に近づくシステムであり、それはいつも演劇的構造をもっている。

神々の世界へ演劇的行為によって接近することが、祝祭の本質である。祝祭そのものが、激しい音楽と舞や踊りの陶酔の中で神々の到来を祝う芸術作品である」

すべての時と夢想と語りが混じり合い、古代のすべての時は現代という被膜をかぶって擬態しているだけで常に刃を研いで待ち構えている。その中で何を寄る辺にして私たちは生き抜いていくのか、そうしたことを深く考える帰り道の電車だった。

藤田さんのすべての領域における大いなるチャレンジに、とても勇気づけられる舞台だった。ありがとう!次回作も楽しみだ。

マームとジプシーHP

「CITY」

この町で。 なにを選ぶか。選ばないか。

どこかに。 光があたると、影ができる。

彼は言う。 「ただしさは、みえるか?」

―――――――――――― <出演> 柳楽優弥 井之脇海 宮沢氷魚 青柳いづみ 菊池明明 佐々木美奈 石井亮介 尾野島慎太朗 中島広隆 辻本達也 波佐谷聡 船津健太 山本直寛 内田健司(さいたまネクスト・シアター) 續木淳平(さいたまネクスト・シアター)

<スタッフ> 作・演出 藤田貴大 衣装:森永邦彦(アンリアレイジ) ヘアメイク:池田慎二 照明:南香織 音響:星野大輔 映像:召田実子 擬闘:栗原直樹 舞台監督:大畑豪次郎

宣伝美術:名久井直子 宣伝写真:井上佐由紀

[埼玉公演] 5 月18日(土)~26日(日) 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール


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