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自分という存在の変化


お能の発表会。 土蜘蛛の頼光役と、仕舞いは海士。 自分なりには頑張った。 少しほっとした。 この区切りで、やっと溜まっていた仕事も取り掛かろうという気になる。... 能舞台でやると気持ちが引き締まるし、紋付き袴を着ると、気持ちが切り替わる(しかも、これは祖父が遺した唯一の遺品)。

能や芝居は時間があればよく見に行くが、する側になるとまた見るときの視点も変わる。 いかにプロのひとたちが練習し稽古しているか、そういうことがよくわかる。 周囲が見てもほとんどわからないミクロレベルの繊細なことを稽古していることが分かる。神は細部に宿るように。

受け手としての消費者だけではなく、する側としての生産者側や発信者側にも立ってみる。それは車の両輪のように大事だ。

一方の立場だけでいると、相手へ何かを伝えるときも、相手の気持ちを汲み取ることができなくなる。一方的に批判する評論家のような立場になってしまうことがある。相手のやる気をそぐような文句を言うだけの立場に堕してしまうことがある。

この店の食事はまずい、サービスが悪い、値段が高い・・・・。

この公演は面白くなかった、出演者が悪い、・・・、など、簡単に言ってしまう。

自分の立ち位置で視点が固定化してしまうことは、立ち位置を変えてみない限りなかなか実感できない。

消費者側ではなく、同時に生産者側にも立つと、ある面では見る目も厳しくなるが(細かい点も見るようになるので)、それ以上に、プロフェッショナルへの尊敬の念も強くなる。

悪い、などと容易く言えなくなる。

どんなジャンルでも自分が初心者になる、という経験も大切だ。自分がおごらないように。 祖父から、「実るほど 首を垂れる 稲穂かな」という言葉をよく聞かされて、骨の髄まで染みついている。

どんな領域でも、初心者の時の気持ちを常に忘れずにいれば、常に自分自身が発展途上であることがよくわかる。どんな人にでも可能性が開かれている、ということはすごいことだ。

比較すべきは、過去の自分と今の自分、そして未来の自分、という縦軸にある。 他者はあらゆる前提条件が違うのだから、他者かから刺激を受けることは多々あっても、他者と比較することはしない。

比較は、基本的に自分という時間軸の中でするものだと思う。

昨日の自分と今日の自分、何がどう変わったかなぁ、と毎日思い続けて30年近く経つが、些細な変化の積み重ねで大きく変化してきた。

でも、核にあるものは変わらないところが、自分という存在の不思議なところだ。

自分という存在は常に未知の存在だ、ということを改めて気づかされる。


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