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「存在が自分している」/「nevermore」@セルリアンタワー能楽堂

軽井沢への移住は反響が大きくて驚いた。

ただ、自分もスパリと生活全般を切り替える時期だと思っていたので、自分の中に何の矛盾も葛藤もなく、滞った水が流れるようにすっきりしている。


実際、西洋医学の最先端の現場に立って、24時間365日不休不眠で働き続けたしお正月も医者になって17年目?にして初めて休ませてもらった。

国立大学に入った時点で、私益ではなく公益のために仕事をするくらいの矜持と誇りは身につけていたので、その分の社会貢献はしたつもりだ。

そして、もちろん、これからは東大に対してではなく、日本や地球、現代の歪み自体への治療行為、補償行為としての医療を展開していきたいと考えている。それは、自分があらゆる危機を乗り切りながら、この世で生き残って生存してきたものとしての役目であると思うから。


哲学者の井筒俊彦さんは、通常の意識では「花が存在している」のだが、深い瞑想状態で深層意識の現実をみると、「存在が花している」という現実こそが生命の底を支えていると言った。


自分はこの話が好きだ。


表層の現実では「稲葉俊郎が存在している」のだが、深層の現実では「存在が稲葉俊郎している」のだとすると、自分はそういう役割を与えられた、天からの脚本、配役の中で、そういう立ち回りを演じているだけなのだと言える。だから人はいづれ死ぬのだ、と。


そう考えると、脚本家やプロデューサーから依頼された以上の仕事をして、自分が名優、名俳優、いぶし銀、として、こいつなかなかやるじゃない、とギャフンと言わせるしか、自分の見せ場はないだろうと思う。

キャストに指名されただけで、それなりに評価してくれているのかもしれないが、やはり自分は期待以上の熱演をしたい。全身全霊で。キャストを決めた人たちをギャフンと言わせて、いい意味で驚かせ、喜ばせたいのだ。期待されていない時でも、期待されている時でも、その態度は特に変わらない。


自分は舞台やパフォーミングアーツが好きだ。(先日も、セルリアンタワー能楽堂に、伝統統と創造シリーズvol.11「nevermore」(津村禮次郎、笠井叡))を見に行ったところ)。 その感想を書けないほど多忙な日々が続き、眼が回りそうだが、その舞台を見た後にもそうしたことを考えながら、渋谷で地球を掘り続ける現場の横を通った。










舞台を見ることは、そうして「自分が存在している」と共に「存在が自分している」という二重の現実を感じて、この世界での自分の立ち位置や役回りをマッピングし直すために、とても役立っている(と感じたことでも、舞台の感想に変えたい)。





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