7/2(木)18:00〜19:00 新著発売記念トーク(Online)『いのちは のちの いのちへ』

7/2木曜の新刊発売を記念して、橘康仁さんがOnline配信を企画してくれました。 リアル書店ではなかなかイベントがしにくい昨今(とは言っても、時期を見て軽井沢書店さんで開催したいとも思ってます)、18-19時の仕事後のティーブレイク的な、ラジオ的なノリで、橘さんと読みどころについて、話します。 Onlineのいいところは、日本だけではなくほかの国の人も見れるところ。ただ、それだけ間口が広すぎると、逆に誰に話しているのかよく分からなくなり、何を話すべきか迷う悩みも生まれるのですが! ●7/2(木)18:00〜19:00 新著発売記念トーク『いのちは のちの いのちへ』 →Webサイト 橘さんによると、「本の内容には触れずに、前提的な話や本に込めた思いなど、これから本を読もうと思っている方々にとって良いイントロダクションになるような配信になればと思っています。」とのことです。 ※配信後もYouTubeでの方は後にアーカイブしてご覧になれます。 ・・・・・・・・・ ちなみに。 7/13月の夜(19-21時ころ?)には、ファクトリエの山田敏夫さんが、新刊記念オンラインイベントをがっつり企画してくれていて、こちらも詳細決まればアナウンスします。こちらは長い?ので、じっくりコース、です。 みなさんに読んでもらえると嬉しいなぁ! ●2020/07/02:稲葉俊郎「いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―」(アノニマ・スタジオ) https://www.anonima-studio.com/books/essay/nochinoinochi/

「光」と「つながり」を求めて

浅間山。 静かに活動し続ける火山と、太陽。 火山という地球のエネルギー、太陽という宇宙のエネルギー。 そうした巨大な自然界のエネルギーは、万物の創造の源でもあり、破壊の源でもあり、美しくもあり、恐ろしくもあり。こうした全体的なわけられないものが、まさに自然界の姿だなぁ。 ただ。 「光」と「つながり」を求めるのは、植物も人間も同じことだと、散歩していても、思う。

アマミ+アイヌ=Amamiaynu

奄美民謡とアイヌ音楽のコラボ・プロジェクト「Amamiaynu(アマミアイヌ)。 いまは亡き安東ウメ子さんの「いのち」に、光が重ねるように、朝崎郁恵さんの歌声が重なる。素晴らしいなぁ。ちなみに、自分の母方の祖父母は奄美大島です。 当直で疲労している時に、何か古代からいのちの力が吹き込まれるようで元気になる。 異界と常に通じ合った古代の唄は、時空を超える。 唄のようで、語りのようで、マントラのようで。 タイトルを読んでいるだけで、心の元郷へと連れて行かれます。 いま、現代文明に穴がぽっかり開いている時だからこそ、古代の風が吹き抜けて、欠損を埋めてくれるかのようだ。 ありがとうございます!朝崎郁恵さん! →スペースシャワーMUSIC HP、Amazon -------------------------- Amamiaynu『Amamiaynu』(2019.09.25) [収録曲] 01. Ikyabiki no yaysama / イキャビキのヤイサマ 02. Ito / イトゥ 03. Kyuramun rimse / キュラムン リムセ 04. Chijurihama no kamome / チジュリャハマのカモメ 05. Eumi rimse / エーウミ リムセ 06. Makya makya upopo / マキャ マキャ ウポポ 07. Miturasanmae kamuy samada / ミティラシャンマエ カムイシャマダ 08. Sengromui menoko / セングロムィ メノコ

リアルな質感や触感や五感、時に第六感

やっと現物の完成品に触れた・・・。 オンライン上での打ち合わせも多く、PC上で確認することも多く、だからこそ、やはりリアルな質感や触感や五感、時に第六感を伴う本は、何とも言えず身体へと働きかけるもので。感動も大きいもので。 リアルな色合いとは不思議なもので、空間の光や背景との複雑な関係性の中で、水色のように空色のように目に映るときもあれば、深海のように目に映るときもあり。 本の最後に、自分が一番好きな200年近く前の詩の引用をしているのですが、そこ読んだだけで泣けました。多感な高校生のとき、なぜかこの詩だけを暗唱するほど読みこんだのでした。当時、なぜ惹かれるのか、自分でもよくわかりませんでしたが、20年以上先の未来を高校生の自分が感知していたのかもしれません。そういう奇跡は、きっと誰にでも起きているもので。自分の人生を読み解くことは、面白いものです。過去の自分は、現在の自分と新しい関係性を結びなおして新しく組成して生き直すことをこそ、求めているようです。 前作より字を大きくして、自分の親世代にも読みやすく、改善しております。 はやく皆様の手元に届きますように。発売日自体は7/2だと思います。 「いのちは のちの いのちへ」というタイトルも、どこからの引用なのか。 韻を踏んだポエジーを喚起するタイトルの由来、ごく一部の人しかわからないと思うのですが、終わりに、でご確認を! 祈りを込めました。 ●2020/07/02:稲葉俊郎「いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―」(アノニマ・スタジオ)(→Amazon、アノニマ・スタジオHP) <参考記事> ●「いのちは のちの い

軽井沢1887

「ブラタモリ 4 松江 出雲 軽井沢 博多・福岡」より。 1887年の軽井沢は、何もない。 浅間山の噴火の影響か、美しい木立も何もない。 山という地球の形だけが、ある。 別の見方をすれば、ちょっとした工夫で、ほんの130年くらいで今の軽井沢の街並みに変わるなら、大きな希望だとも思う。130年と言えば想像できる時間軸でもあり。 自然を放置するわけでもなく、ただ自然を壊すわけではなく。 自然と人間との距離感こそが大事だ。 虫や動物、植物とも距離感こそが大事だ。 それは人間関係すべてに普遍的に通じることで、愛の本質とも関わることで、距離の問題はコロナ禍が顕在化させてくれた。 social distanceは、すべてから距離をとり、とらわれていた常識を再検討するためにも深い意味を帯びていた地球規模のムーブメント。 軽井沢という土地の特質として、キリスト教の霊性と日本的霊性ととが交わり、程よい「距離」をとれたことも大きな要因で。 横尾忠則さんから生前の三島由紀夫の話を根掘り葉掘り聞いた。 その時に今でも響いている三島由紀夫の言葉として「芸術と礼節が交わるところに霊性が宿る」という遺言があり、自分は土地や場所でも同じことが言えるのではないかな、と思う。 横尾さんと三島由紀夫も、ただ出逢った、のではなく、互いの「霊性」が交わったからこそ、今こうして自分の哲学の一部分として入り込んでいるのではないのかな、と。 なぜかいま、改めて三島由紀夫を、思い出しながら。

LEGOは時空を超えて

こどもの3歳の誕生日にLEGO(レゴ)をもらった。 3歳なのでまだ設計図に沿っては作れない。 その子供に変わって自分が作ったら、見事に自分がレゴにはまってしまった。。。。 というのも。 自分は子どものころ、「レゴ少年」だったことを、思い出してしまったのだ。 来る日も来る日もレゴを作り続け、親に驚愕された。寝ながらも作り続けた。レゴを掴んだまま寝て、起きた0.1秒後には続きを作り続ける。ご飯も食べずに作り続ける。親から禁止されて渋々ご飯を食べているときも、脳内では延々とレゴを作り続けていた少年時代。すべてがレゴに脳内変換されていた。ああ、なんと懐かしく甘美な時代だろう。 目の前に見える風景すべてをレゴで作れるのでは?!と思いつき、想像はふくらんだ。 子どものころ、自分の家の中と、歩いて小学校に行くまでの道のり、くらいが世界のすべてだった。 家から外に出て最初に見える川。寺の参道。途中にある草や田んぼ。ふといる虫。空をふと飛んでいた飛行機、、あらゆるものをレゴで表現し続けた。自分なりの森羅万象をレゴで表現する。(自分のイメージの世界です) 家から小学校まで歩いていく道のり以外、すべてが異界だった。日本の他の県も知らないし、海外も知らない。(テレビや本で知識としては知っていても、実感としては知らないもので) 家から学校に行く間に目に映る風景をレゴで表現しつくしたと納得したら、自分の妄想はどんどん膨らんでいった。自分の意識は宇宙に飛んだ。 宇宙の誰も住んでいない惑星に、自分がレゴで都市を作る。前人未到のチャレンジに、誰から頼まれたわけでもなく、ひとり孤独に取り組んだ。 たとえ世界が明日

松尾芭蕉「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」

山形の自然に深く分け入ってみて、知的な観念ではなく肉体的な実感として、自然界の歴史として表現されてきた自然界の全体性の一端を、肌身に感じることができた。 虫、植物、石、水。時には厳しく、時には優しく、どういう関係性の中で生きているかということを。 自然界の複雑な模様。ここに奥深い真理や美の表現がある。 そうした形やパターンを見ていると、飽きることがない。 山や自然という場を通過することで、身体は「力」を受け取り、蘇生するような気持ちがした。 山形は、温泉がよく、食が豊かで、山に対する宗教心も厚い。人も親切だ。 素晴らしい土地だなぁ、と改めて。 松尾芭蕉「語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな」

月山 松尾芭蕉「雲の峯 いくつ崩れて 月の山」

山形の霊山、月山。 月山(がっさん)は標高1984mの火山で、1500mの湯殿山、418mの羽黒山と共に出羽三山と呼ばれる。修験道の山岳信仰の山としても知られる。日本百名山の一つでもある。 月山は6月のこの時期からスキーで賑わうほどの万年雪であることもはじめて知った。厳冬期はあまりにも雪が深すぎるから。 学生時代、狂ったように登山をしていた時も、この山形の出羽三山は、修験道の信仰の山だと知っていたから、遠慮していかないでいた。今、こうして月山に来れたことに感動する。 登山でもスキーでも山菜取りでも山への信仰でも。 理由はどうあれ、こうして人が山に向かう、山に集う、自然に身を委ねる、自然に抱かれる。 そんな光景は美しいものだ。 月山は、母なる地球を思わせるような、無限の包容力を放つ存在だった。 山が好きな人は、自然を前にして人間がどれだけちっぽけな存在か、そして、その複雑なバランスをいじってはいけないか、ということを肌身に染みて知っている。 それこそが自然を愛するということだと思う。 松尾芭蕉「雲の峯 いくつ崩れて 月の山」

山形のブナ林 松尾芭蕉「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

山形のブナ林は美しかったなぁ。 軽井沢とはまた自然の植生が違って、自然豊かなところでは植物も伸び伸びとして嬉しそうだ。 ブナ林ではセミの大合唱だった。 松尾芭蕉「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 この句は、山形の立石寺に参詣した時に芭蕉が詠んだ発句。 その気持ちが山形に行くと実感される。 セミの声と石や植物とが分かちがたくつながっていることを。

石の教会 キリストの霊性が交わる土地

軽井沢で「新渡戸通り」を自転車で走りながら、新渡戸稲造のことを思った。 軽井沢に来て、やっと石の教会へ行った。 昔ここに来たことがあるような懐かしい不思議な感覚。 こうした「なつかしさ」は、何か生命回帰、母体回帰のような建築のなせるわざなのか。アメリカ人建築家ケンドリック・ケロッグは、フランク・ロイド・ライトの有機的建築organic architectureの影響も受けている、と。 ここは内村鑑三記念堂でもあり、内村鑑三という人を、もっと知りたくなった。 内村鑑三と新渡戸稲造は、日本が近代していくとき、近代精神を方作った人たち。 二人は札幌農学校時代の同期であり、共に平和主義者でもある。「ふたつの J」として、Jesus(神)とJapan(日本)というものの狭間を生きた。 新渡戸稲造はキリスト教のクエーカー派に入信した。軽井沢夏季大学の初代学長を務め、二人とも軽井沢に縁がある。 いろいろと自分なりに深めていきたいテーマがある。 自分は、人生の節目節目で、ブッダやキリストの霊性が交わるところに影響を受けている。 ここ軽井沢は、日本とキリストとの霊性が交わるところでもある。

Nina Simone「Ain’t Got No, I Got Life」(1968)

NYの友人と話していると、日本よりもアメリカはロックダウンでさらに苦しそうだ。 人と会えない。外に出れない。普通が普通ではない。 ひとり孤独に苦しんでいる人も多い。 絶望の中、苦しんでいる人も多いだろう。 コロナ、暴動、あらゆる問題は相互にリンクしている。 社会はどん底に行くかもしれないが、どこかで底をタッチする。そして、必ず浮上してくるするはずだ。 だからこそ、この唄を送りたい。 Nina Simone「Ain’t Got No, I Got Life」(1968) (アルバムでは『Nuff Said』(1967)に収録されている。キング牧師追悼のライブ盤) 音楽は「いのち」を呼びさますもの。 自分は、高校のころから、Nina Simoneをずっと聞き続けている。 いまこそ、彼女の声は世界へ響き渡るだろう。 彼女の歌声とピアノは、絶望の底から聞こえてくる、いのちの響き。 自分は、この唄を聞きながら、何かを確かめるようにしながら、7/2にアノニマ・スタジオから出る「いのちは のちの いのちへ」を書いた。 ●Ain't Got No, I Got Life - Nina Simone ●Nina Simone - Ain't Got No I've Got Life lyrics ――――――――――― Nina Simone「Ain’t Got No, I Got Life」(1968) 【和訳】 「なにもない、いのちだけがある」 家もない、靴もない お金もない、階級もない スカートもない、セーターもない 香水もない、ツキもない 運命もない 教養もない、母もいない 父もいない、

ハーバー・ビジネス・オンライン連載「いのちを芯にした あたらしいせかい」

ハーバー・ビジネス・オンラインで、「いのちを芯にした あたらしいせかい」という連載を始めます。2週間に1度くらいの配信の予定です。 メディアには色々な特徴があります。 例えば、アノニマ・スタジオで書いている本は、精神的な護符のようなものを目指しながら、同時にひとつのモノとして自立する美術作品のようなものを目指しながら、作品として作り上げています。 今回の連載のようにネット配信の利点は、Yahoo!ニュースなど、同時に20媒体くらいに流れるものです。幅広い読者層にも読んでもらえます。本を買うお金がなくても、端末につながれば誰でも読めます。スクランブル交差点で看板もって立っているようなものです。もし、いのちの危機的状況にある人、人生に絶望した人がふと読んだとしても、少しは力になることがあるのではないかと思い、書いています。本を読まないどの世代にも(特に若い世代に向けて)伝えることもあるかとも思い、ネット連載をすることにしました。 写真も、ことばを越えた世界で無意識を揺り動かすように伝わります。自分が呼吸するように撮影し続けている写真というイメージ言語を介して、意識も無意識も同時に働きかけることができるのではないか、という思いもあります。 ハーバー・ビジネス・オンラインでの他の方の記事は、ビジネスや政治関係の配信が多いようなので、自分はまったくの独自路線で行きます。自分は自分です。Fbやブログに勢いで書いたものを清書して書いているので、デジャブ感を感じつつ、落ち着いたトーンで読めるのでは、と思います。 いま、時代は切迫しています。 当たり前のようでいて疎かになっていること。 ちゃんと

植物と木の鼓動

軽井沢は、植物の声がよく聞こえてくるところだなぁ。 東京暮らしのとき、どれだけ耳を傾けてこなかったのか、身につまされる思いがして、時々胸がしめつけられる。これはきっと重要な身体表現だろう。 子どもと、人の肌に触れるように、木の形を触れ、やさしくやさしく、鼓動を感じるように触れ、なぜこの形になるのか?と共に考えた。 知的には分からないが、ここに自然の摂理の表れがあると思うと、霊性としては理解できて、神聖な気持ちになる。 こうしたことは、お年寄りの皺多い皮膚に触れている時、その人の人生の皺、人生の山や谷に触れている気がして、心の核がポカポカと温かくなるときと、似ている。 そこには時が刻まれている。

植物と光との歴史

闇の中から光を求めていくのは、植物の生態そのものだ。 光が多い場所では一身に宇宙からのエネルギーを浴びる。 闇の中ではお互いが光を求めながら、それぞれが最大限の光を得る塩梅へと落ち着いていく。 その複雑な関係性は神性を帯びている。 確かに光の当たり方は場所によって違う。それはある意味では不平等だとも言える。 ただ植物を観察しているだけで、自然界の光と闇、闇と光のバランス、その中での生命の光を放ちながら生きるとはどういうことかと、自然界は答えを提示しているようにも思う。互いは本来的に比較できるものではなく、地球の土という共通の土壌にあることも。 深呼吸して植物の生態を見る。雑草でも何でも。特に日影に生きる植物たちを見る。その生命の在り方を見る。 これは20億年近い植物と光との歴史そのものでもある。 人類は、その果てしない歴史の中でふとした偶然で生まれて来た。

2020/7/2:稲葉俊郎「いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―」(アノニマ・スタジオ)

やっと新刊の書影が出た・・・。 「いのちを呼びさますもの」(2017年、アノニマ・スタジオ)は、この医療危機の時代に多く読み直されて、とてもうれしかったです。Fbでのブックカバーチャレンジでも多くとりあげていただきました。 →→●軽井沢写真とFbブックカバーチャレンジ(2020/5/22) アノニマからの次の本は、 「いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―」 です。 7月2日発売ですが、Amazonだともう少し早く届くのかもしれない・・・。 医療の新しい「場」について、どんな人にも関係があるものとして、書きました。2018年から2020年を目指して描き続け、時代がシンクロしていることに驚きながら。 医療の仕事はやはりいつでも忙しく、軽井沢に来てからも早朝4時起きで、書いては削り、書いては削りで、子どもが起きる前、東京や軽井沢の早朝の気配の中で書き続けた本です。自分の中で、夜明け前からボンヤリと光があたってくる気配が、本の中に入り込んでいます。 ぜひぜひ、二冊合わせてお読みいただきたいです。 今回も装丁にこだわり、モノとしての美を、大切にしました。(書評で、どなたかとりあげてほしいなぁ!) (ちなみに、ビートルズの赤盤、青盤も意識しています。笑) ●2020/7/2:稲葉俊郎「いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―」(アノニマ・スタジオ)→Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4877588086/

唇・口という「入り口」

感染症の感染経路に関して。 コロナウイルスに限らず、細菌やウイルスなどの異物は、口を「入り口」として感染してくる。 「入口」「出口」という言葉の中に「口」が入り込んでいるくらい、口こそが外界に開いた窓だ。ちなみに、体の「出口」は肛門で、人体は口と肛門を介して内臓が外に開いた構造をしている。マスクをつけると(ある程度は)「口」からの感染防御ができるのはそのためだ。 (ある程度)と書いたのは、マスクは大まかにしか口を防御していなから。 人は口から食べ物を取らざるを得ないので、かならず口は開く。そこが感染経路になる。そして、たいていは人間の無意識の行動こそが、感染経路になっている。明らかな咳やくしゃみは目立つので防ぎやすいが、自分自身の無意識の行為は死角になる。 いつのまにか、手を口に持っていく。いつのまにか、手で口に触れる。 多くの人はほぼ無意識の動作になっているので自身でも気がつかない。 だから、手をよく洗う、ことは感染防御の基本のキで、その上で自分の無意識の身体の動きを意識化するのが、今という時期に大切なことだ。 そうして、手のしぐさ、ジェスチャー含めて、自分の無意識の動き(や相手の無意識の動き)を意識化してみると、いろいろとおかしく奇妙だな、と思う動きも多い。「からだ」のことを「あたま」はほとんど知らないからだ。脱線するが、心揺さぶられるダンスは、こうした動きを増幅させることで、無意識の通路を介してお互いの身体を同期させているような気もする。 そうした身体言語、無視域の自分の身体に対して、意識を向ける、というのは感染防御の面でも大事なのだ。 ところで、口には唇があるが、体の「

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